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履歴、経歴??

持病病院の日を間違ってしまい、本日行くことになりましたです。
しみじみ部屋を見渡せば・・・大爆発中です。

暖かく(もうなってる気がしますが)なる前に何とか片付けて虫対策(主にゴキブリ)をしないと。って、コンバット等の駆虫剤を置くだけですけど。とは言え春はあまり体調が優れず手つかず。先日は積み上げた古い本が崩れてきました。ここに引っ越すとき8割を捨ててきたのも早ひと昔。もう雑誌やら本が増えてしまいました。ネットだけではなかなかダメな年代なんですかねえ??

崩れた本の中に昔々、自分の大叔父が作り親戚中に配った「家系本と系図」が出てきました。
系図と言うのは明治期以降は「先祖は武士」、江戸時代は「先祖は源氏」と誰でも言うのが定番です(笑)「系図探し」という職もあったそうです。でも「系図探し」とは名ばかりで都合よく系図を作り上げてしまう事の方が多かった。また没落した家系を見つけ出して強引にその家系と結びつけたりするそうで、これらを別名「系図買い」とも言いました。

なにせ江戸幕府の開祖、徳川家康からして朝廷では「源の朝臣(あそん)家康」と「源氏」を名乗ってました。が、「三河物語」によればホントは「賀茂氏」と言われてます。戦国初期には「藤原氏」も名乗っていたそうです。
「そっか、征夷大将軍には源氏しかなれないから系図買いしたんだなー」と思っていましたが、源氏を名乗り始めたのは「桶狭間の合戦」で織田信長に今川義元が討たれ、今川氏から独立した頃だとか。その頃はまだまだ小大名。とても「将来、将軍になるから今から変えとくか」と考えたとは思えません。これは義元亡きあとの今川家に対抗する為だったのでしょうか。今川は正統な源氏で足利将軍家にも連なっていましたから。これに家格でも対抗しようとしたのでしょうか。

家康の「系図買い」は当時の関白にたのんで源氏「新田義貞」の家系と結びつけてもらったものでした。新田氏の一族、得川なにがしが旅の僧となって三河に流れてきて、松平家の娘と恋仲になり、婿養子として松平家をついで「得川」を「徳川」に変えたとかなんとか。ロマンチックだけどすげー強引な結び付けですね・・・。ともかく以後家康が新田源氏を名乗ったため、上州新田郷で細々と続いていた新田の子孫(岩松氏)がいきなり「将軍家のご先祖の家」に。江戸時代には知行を得た上に特別優遇の高家旗本になったそうです。関係ないのに無理やり親戚にされた岩松氏は「気分悪ぃ~」もしくは「棚ぼたラッキー♡」どっちだったのか。やっぱ「棚ぼたラッキー♡」だったでしょうかねえ。でも岩松氏は家宝?の家系図を徳川家に提出するよう言われたけど、それを断ったとか。。。

ちなみにこの「源氏」には秀吉も悩み、一時足利将軍家の養子になる事で「源氏」になろうとしました。でも頓挫。そこで朝廷を利用。五摂家(摂政、関白を出せる家)のうちに養子として入り込み六摂家目「豊臣」と名乗ることにしました。・・・って、簡単に書けますがこれは今考えるよりほんっ~~~~~とに凄い事でどれだけの壁があったことか。近代以前の身分の壁というのは物凄かったんです。なのに人身最高の位「関白」に。上にはもう天皇陛下しかおられない位階なのです。「平家にあらずば人にあらず」の平清盛も太政大臣でしたから(でも武家で初めて従一位に上ったんだから、こっちの方がすごいかな。)やっぱり金銭と武力に最後は物を言わせたんでしょうか。

・・・でも天下人になるちょっと前から平氏は名乗っていたそうで、これは信長の関係からでしょうか?やっぱし源氏に比べて平氏は名乗りやすかったんでしょうかねえ。。。

この時代、「人身最高の位」関白になるより「武士の棟梁」将軍になる方が難しかった、という事の方が興味深い。秀吉は従三位権大納言に任官したとき将軍職も進められたそうですが断ったと言われます。秀吉といえども「源氏しか征夷大将軍になれない」を打ち破れなかったのでしょうか。それくらい当時の「源氏」(身分)は重要だったんですねえ(それがタテマエとしても)。

そこでふと思いますが「織田信長」はどうする気だったんでしょうかねえ。信長は「平氏」だから、当然このままでは征夷大将軍にはなれない。織田氏は南北朝時代の守護代時代以前から平氏を名乗っているので「系図買い」も無理。やっぱ「関白」系ですかねえ?信長は領地を回復するとすぐに朝廷や公家の荘園を回復したので朝廷に忠実と見られていました。でも信長は右大臣になっても三日でやめてしまう程です。恐らく、既成の権威には振り回されなかったかもしれないですねえ。そういえば「副将軍」も辞退して代わりに堺の統治権を将軍義昭からもらってますよね。鉄砲調達(玉薬)という大目標があったからと言われますが、やっぱり既成の権威に入るのを嫌ったのでしょうか。信長は晩年、自分を神としてあがめるよう、影向石(神が乗り移った石)を安土に作り、庶民に拝ませたそうです。そこから考えると幕府でもない、朝廷でもない、「新しい権威」を作ろうとしてたんでしょうか。それが進んでいけばもう一波乱あったあったかもしれません。が、「前右大臣」のまま政権は秀吉に移ってしまいましたから・・・。

でもまあ日本人はもとを辿ればやっぱり源平藤橘につながってるのかも。国津神、天津神の子孫なのかもしれません。
(いろんな本読んでごちゃまぜだから間違ってたらすみません。。。)
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見方、味方?

本日は眼科に行ってまいりました。定期的な眼底検査です。
網膜静脈血栓症以来、定期的に眼底検査を受けるよう言われていたのですが体調のせいかなかなか行けなかったのです。最近の眼底検査はレンズを目の中に入れないんですね。どこの病院でもそうなってきました。それと・・・自分の地域だけの話ですが眼科、皮膚科は女医さんが多いです、というより女医さん以外と当たったことがない(笑)まあ、年齢は妙齢の方からお若い方までバラバラですが(当たり前か)

これも当たり前の事ですが、私は患者の一人です。病院へ行くと毎度混雑。という事はそれだけ患者が多いという事で、お医者さんにとっては自分はそのうちの一人にすぎないのです。なのに親身に接してくれるお医者は大変だなあと。逆に自分たち患者にとってはお医者はその一人だけ。大勢のうちの一人(医者側の見方)と、その人オンリー(患者側の見方)ではかなり違うのだろうなあ。

ネットを見ていたら最近のお隣の某国の経済低迷の記事がありました。関連して動画があり、それを見たら1997年のアジア通貨危機の時、某国の危機を増長したのは日本なのだ、一番最初に資金を引き揚げた・・・とお隣の国では報道も世論もなっているそうです。これは大きな間違いで、実は最後までドル資金を供給したのは日本の銀行であり、日本は一番助けていた。それを知っている記者たちも某国では多いはずなのに、何故こんなウソが某国ではまかり通っているのだろう、と。この記事を見た日本の金融界はもし某国で次に金融危機が起こっても今度は冷たい仕打ちになるだろう、と。それは仕方ない「恩」を感じないどころかまさに「仇で返す」マネをしているからだそうです。

この記事を読んでずいぶん昔ですが、学生の頃の経験を思い出しました。
確か近代西洋美術史だったと思いますが中間試験では自作ノートの持ち込みが許可されていました。基本当時から歴男(笑)の自分。この辺は得意でノートも独特の取り方で記入してました。お気に入りのフレーズとかそんなのを特筆したりして。得意分野でもあったために試験は20分くらいで終わってしまい、ぼ~っとしてましたら後ろの席からつつかれました。見たら斜め後ろに座っている某国の留学生。何度か別のクラスでも一緒になったりして顔だけは知っていました。微妙な日本語で「ノート」を貸してくれ、と。・・・ノート持ち込み可のテストとはいえ、これはカンニングほう助になるのではないかしらん?それに自分のノートは余計な事が書き込まれていて試験に役立つ部分を探すのは日本語得意だとしても難しいのではないか・・・と10秒程なやみましたが相手は留学生。「自分のノートは読みにくいけどそれでもいいか?」と言って渡しました。それを見た担当教授。当然、注意をうけました。困った自分ですが留学生はなんと自分を指す。「説明してくれ」という事かなと思い「この人は留学生で、ノートをちゃんと取ることができず自分のを見せてほしいと頼まれたのです」・・・とちょっとだけ作り話を交えて説明。留学生と聞いて教授も仕方なく許可してくれたのでしょう、不問にされました。ただ名前と学生番号をメモられてちょっとビビり💦試験が終わりノートを返してくれたのですが「読みにくいね」の一言。。。(いくつかの講義で顔を知ってる程度なのに)でもノート程度なので無理やり感謝してくれとも言えませんが「ありがとう」位言って欲しかったなあという事を覚えております。これも文化の違いかもなあと思いましたねえ。出来れば学食おごってくれればもっと良かったかな(冗談です)(笑)

でも当時、某国留学生の女の子が知り合いにいて彼女はそんな事はなかった。ですから個人の問題かもしれませんねえ。(彼女は日本語ぺらペらでしたけど)以前にも書きましたが、彼女は「ジャングル大帝」「リボンの騎士」の作者を某国人だと思っていて手塚治虫の作品(日本の作品)と知って驚いていました。鳥山明作品も日本原産と知ってまたまた驚いていましたねえ。そして当時日本に来て一番驚いたことは「朝からHな番組をやっている事」。何の番組やらわかりませんでしたが(ちょっと前まで確か軍政だったと思いますので)自分は「それが自由の国なんだよ」と言った記憶があります。(笑)でも今は某国の方がすごい気がします。芸能人女性グループのファッションやダンスなんて・・・。。。そう言えば、濁音を50音で習うときおかしくて笑ってしまったとか。(がぎくげご、ざじずぜぞ・・・)にゃにゅにょのほうがおかしい気がするんですけどねえ。

彼女は卒業後、アメリカ留学することになりました。向こうに叔母さんが住んでいるとかで渡米祝いのサヨナラパーティーをささやかに居酒屋で催しました。「また逢えたらうれしい」と言っていましたが・・・もうかなり昔の話ですねえ。。。

【続】ハッタリ、ハッタリ、でもハッタリではなかった!!

今年の春は雨が多い気がします。
しかも「春雨じゃ。濡れてゆこう」by月形半平太 なんてものじゃなく風雨レベルに近いもの。病院通いが苦難です。。。

先日の続きで「今日から 楠木正成登場!」です。ってなんか江戸時代の「太平記読み」(講談師)の宣伝みたいですが(笑)

後醍醐天皇が「御所の南に大木が生えているがあれはなんじゃ」「あれは楠(クスノキ)です。そこが天皇のおわすところです」というような夢をみます。そこで御所より南の地方を探させた所、河内国に楠木正成という土豪がいる。その楠木正成を御所に呼んだ事から後醍醐天皇と楠木正成の主従関係が始まります。ちなみにyoutubeにあるラジオドラマ?の太平記もここから始まってました。(ここだけしか聞いてないけど)

楠木正成は今から南部で挙兵し幕府と戦うと後醍醐天皇に献策し、後醍醐天皇は3度目の挙兵をします。しかし後醍醐天皇は赤坂城で敗れ鎌倉幕府軍に捕まってしまいます。が、楠木正成はその赤坂城で挙兵して籠城、そこで負けると今度は険しい山に立つ千早城に籠る。これが前回友人に言われた「ただのゲリラ戦だ」です。1000に満たない楠木軍に対し幕府は10万とも言われる大軍を出し包囲しますが2ヶ月経っても落とせず、その上正成はこの攻囲からまんまと逃げ延びてしまいます。その後は、突然現れては幕府軍の一部を打ち破り、そして消えていく。神出鬼没、まさにゲリラ戦を続けました。

主(あるじ)の後醍醐天皇が捕まっても、何故、楠木正成はこの戦法で戦い続けたのか。

当時、鎌倉幕府はガタガタでした。その主な原因は土地問題。「いっしょけんめい」です。
現在は「一生懸命」も「正解」になりましたが、正しくは「一所懸命」でこの時代の言葉だそうです。つまり「一所を懸命に守ること」
そして武士は自分の土地「一所」を保証してもらえる代わりに幕府に「懸命」に尽くす事でもあります。この関係が崩れつつありました。正成はこれを見抜いていたようです。なので坂東(関東)随一の弓取りと言われた宇都宮氏が出てくると「戦場で命を落とすなんて馬鹿な事」と言って兵を引いてしまった。ハッキリ言って逃げ出したんですね。そうやって正成は待っていました。

一体何を・・・?

鎌倉幕府はついに東国武士団最強で名門 源氏の足利尊氏の軍団を差し向けます。しかし足利尊氏軍団は京に近づくと突然停止して「後醍醐天皇に味方する」と宣言。鎌倉幕府に反旗を翻しました。そして播磨で挙兵した赤松則村の軍団と一緒に幕府の組織 六波羅探題を攻め落とします。
この報を聞くや否や各地で反幕府の炎が上がります。それ以前から挙兵はありましたが、何といっても源氏の名門 足利尊氏が挙兵したのが大きかったんですね。なんせ武士の棟梁はやっぱり「源氏」ですから。同時期に上野(こうずけ)では同じく源氏の新田義貞(にったよしさだ)が挙兵。坂東各地で有力武士団が挙兵し鎌倉を包囲。鎌倉は自然の要害ですが新田義貞は宝刀を海に投げ入れ、潮を引かせ(という伝説があり)その潮が引いた隙に鎌倉へ突入。ついには鎌倉を攻め落とし、当時の執権 北条高時以下800余人は自刃して果てました。その地は「腹切りやぐら」と言われ現在、関東で有名な心霊スポットになってます。

つまり楠木正成はこれを待っていたのです。

幕府はガタガタ、そこへもってきて少数の楠木正成をも討ち果たせない。それに仮に武功をあげてもこれでは大した恩賞も望めない。そう、武士たち(御家人)が「鎌倉幕府を見限る」のを待っていたのです。それまでは 少数の正成軍すら討てない という姿を見せ続けなければならない、「情けない鎌倉幕府軍」の姿を。だから「卑怯」と言われても死ぬわけにはいかなかったわけです(この事は後にもっとよくわかります)

これこそ戦略眼ではないでしょうか?だから前回「日本の武将には中国のような戦略眼を持った武将がいない」に対して「楠木正成は戦略家じゃない?」と友人に言ったのです。(あんなの「ゲリラ戦にすぎない」と言われても)

前回も書いたように後醍醐天皇の「建武の新政」はめちゃくちゃでした。この事で後には後醍醐天皇と足利尊氏は完全に反目。今度は足利尊氏が後醍醐天皇に対し挙兵し、京に攻め上ってきます。

この時代(つーか戦前まで)天皇家の敵、つまり「朝敵」になってしまうといわば日本全国の敵になる、と同意語でした。尊氏は最初、いくら後醍醐天皇と対立しても「朝敵」になるわけにはいかないと出家しようとします。が、後醍醐天皇の政治はめちゃくちゃ。武士はとても支持できない。なんとか尊氏に「征夷大将軍」」になって「幕府」をひらいて欲しい。それが多くの武士達の本音でした。

このとき尊氏には今風に言えば「カミソリ」というあだ名になるくらい有能な弟 直義(ただよし)がいました。直義(ただよし)は尊氏の出家を思い止まらせ、賊軍と言われようとも「君側の奸を討つべきだ」と尊氏を挙兵させます。

「君側の奸を討つ」つまり後醍醐天皇は悪くない、悪いのは回りにいる家臣だ。それを討って陛下をお守りするという。しかし本音は後醍醐方の武士 新田義貞、楠木正成、公家だけど奥州軍団を率いる北畠顕家(きたばたけあきいえ)を討ってしまえば後醍醐天皇は武力を失い、もはや何もできません。後は別系統の持明院統の天皇家が後醍醐天皇を「島流し」にでもすれば完全勝利になります。

「源氏の名門」という看板が物を言い、そして建武の新政のめちゃくちゃさに足利尊氏を支持する武士が集まり大軍に。しかし足利軍は京都に入ると楠木正成の謀略により新田義貞軍に大敗してしまうのです。足利尊氏は軍団を失い九州に落ち延びていきました。正成の謀略が勝ったとはいえ「尊氏は弓矢」と言われるほど「戦上手」な尊氏。それがこうも敗れたのは・・・やっぱり「天皇家に弓を引く」という負い目を感じていたせいかもしれません。

しかしこの時です。勝利をもたらした楠木正成が後醍醐天皇に信じられない献策しました。「今こそ足利尊氏と和睦しましょう。使者には私が参ります。尊氏と和睦したら(味方の)新田義貞など討ちとってしまいましょう」

尊氏の大軍を破り勝利の宴の最中、大敗した尊氏を呼び戻し和睦しよう、その上 味方の有力軍団 新田義貞なんか討ち滅ぼしてしまおう・・・こんな事言われたら「お前、おかしくなったのか?」と疑われたでしょうね、きっと。
でも正成には見えていたのだと言います。尊氏は必ず再起してまた大軍を率いてくることを。新田義貞(源氏)には武士の信頼は集まらないであろうことを。武士たちの信頼を得るには同じ源氏でも尊氏でなければならないこと、そして尊氏を「征夷大将軍」に任命して政治を任せるべきだ・・・と。(もしかすると北畠顕家も討ってしまえと思っていたかもしれません。が、顕家は高位の公家なので言えなかったのかも)

当然、後醍醐天皇はこの献策を無視しました。あんなに惨敗した尊氏に、勝った側の後醍醐方から和睦の使者を出すなんて、逆ならまだわかるが、考えられません。
しかし数年後、正成の予測通り尊氏は九州で大軍を集め攻め上ってきました。しかも今度は別系統の持明院統の光厳上皇から「新田義貞を討て」という治罰の綸旨(じばつのりんじ)も受けていました。つまり尊氏も「官軍(天皇軍)」となって攻め上ってきたのです。それにやはり 「源氏の名門」尊氏は武士たちの希望だったのです。尊氏の大軍との戦いが不可避となったこの時、ここでまた正成が献策します。

「一旦、京を尊氏軍に明け渡しましょう。そして京に入る補給路を断ってしまいましょう。尊氏は大軍だけにすぐ食糧がつき、弱体化します。そこを責めましょう」

この献策も後醍醐天皇は取り上げませんでした。せっかく回復した京を天皇である自分が離れたくなかったのです。しかし尊氏軍は迫っている。後醍醐天皇は正成に尊氏追討の命令を出します。

この時の楠木正成の心情は「君の御戦(くんのみいくさ)必ず破るべし」(今度の陛下方は戦に必ず負ける)

尊氏軍の大軍と正面から戦う。これはほぼ「死ね」と命令されたも同然でした。しかし楠木正成は出撃をする。かつて強敵 宇都宮氏が出張ってきたとき「戦場で命を落とすなんて馬鹿な事」と言っていた姿と全然違う。やはりあれは臆病で逃げ回っていたのでは決してなく まさに「戦略」だったのです。

死を覚悟した正成は息子の正行(まさつら)と有名な「桜井駅の別れ」をし新田義貞と共に戦いに臨む。「湊川の戦い」です。
しかし戦いが始まってすぐに新田軍は総崩れ。戦場には正成の700騎だけが取り残されました。それでもなお10万とも20万ともいう尊氏軍に対し三刻(およそ6時間)ものあいだ戦い、ついにこれまでとなり切腹しました。

こんな楠木正成が「ただのゲリラ戦」の武将とはやっぱり思えません。三国志に負けず劣らずの戦略家ではないかなあと思います、三国志の事全然知らないんですけど💦
確かに「太平記」は楠木正成の事を良く書く傾向が強く、信じられないところもあるそうです。そもそも「物語」ですしね、「桜井の別れ」も幼い息子に別れを告げたことになってますが、現在は息子 正行は30を超えていたことが判っています。しかし当時の「梅松論」や敵であった尊氏方の武将今川了俊の「難太平記」からも楠木正成の戦略眼は書かれているそうです。
そして太平記では楠木正成の死は、足利尊氏はもとより足利方の武将すべてが惜しんだそうです。

この逸話は第一次世界大戦の撃墜王「レッド・バロン」こと リヒトフォーヘン男爵の戦死を思い起こさせます。敵であった撃墜王の死を連合国軍は惜しみ、最敬礼の葬儀をあげたそうです。
また一旦京を明け渡し、補給を断って弱体化させてから攻めよう、という献策を後醍醐天皇から却下された姿は、第二次世界大戦、ドイツの東部戦線でマンシュタイン元帥が「一度戦ってわざと負けて撤退し、ソ連軍が攻め込んできた所を逆に包囲してしまおう」という「後の先」作戦をヒトラーが否定し「先の先」(とにかく攻撃)作戦に変えさせられたのを思い出します・・・。

…毎回ですが、長くなりちょっと微妙ですが今回はこれでおわりにしたいかなあと思います。。。。でも、

最近自分は何やってるのだろう、とふと思います😿

ハッタリ、ハッタリ、でもハッタリではなかった!!

部屋の前の桜が芽吹きはじめて5分咲ほどになっています。
最近暖かい日が続き、微妙に体調も崩れがち。明日は都内の病院へ出向きます。

先日ハッタリな人?を書きましたが、ハッタリに見えてハッタリじゃない人もいると思い出しました。

学生の頃、友人に三国志に詳しい人がいて「日本の武将には中国のような戦略眼を持った武将がいない」と言っていました。が、自分にはそうは思えず「楠木正成(くすのきまさしげ)は戦略家じゃない?」と言いました。ですが、「あんなのゲリラ戦法だ」の一言で返されてしまいました。当時、三国志をほとんどしらなかったので黙ってしまいました。
後に何故「三国」志かというと「本当に有能な人物」がいなかった時代だったからダラダラと3国で戦いが続いたというのを読んで納得させられました。天才、諸葛孔明のあだ名は「伏龍」(龍が伏せている)。伏せているだけなので立てばすぐ「龍」・・・のはずなのに、劉備玄徳の死後、「独り立ち」しても三国家統一できずに死んだと聞かされました。
でもしかし現在も三国志に詳しくない自分はまた聞きだったりまたまた聞きだったりなので何とも言えません。間違っていたらすみません。。。けど・・・これだけ聞くとホントはあんますごい人物が出てない時代だったんじゃないの?との思いも出てきてしまいます。

それに、その友人、今思うと世に通説としてある三国志を史実と思ってたフシがあるんですよね。一般に流布している三国志は「三国志演義」を元にしており、これは「通俗歴史小説の先駆」と評されるように 千年以上も後の明時代になってから書かれた娯楽小説なのです。

楠木正成も「三国志」よろしく「太平記」という物語の中での姿が一番多い。ただ太平記は後醍醐天皇の崩御後20~30年には成立してましたし、足利方の武将今川了俊の「難太平記」という反論文?もあることから「三国志演義」よりはまだまだ信用がおけるものじゃないかなあと思います。(一部と二部だけですけど。三部からファンタジー小説になってしまいます)その他、当時の日記や足利幕府の記録にも残されており、そこからも推察されています。

楠木正成の出自は諸説ありハッキリとは判りませんが、河内国(大阪南部)の土豪だったのは確かです。当時、身分の上下が厳しく、河内の土豪程度が天皇という超身分の方と「直答」(直接話すこと)できるなんて事はありえないのです。が、後醍醐天皇はこのような「(身分的に)卑しい武士」とも屈託なく交わったそうです。なにせ真言立川流という有名な「淫祠邪教」にも手を出していたと言われている程ですから。この後醍醐天皇ですがちょっと誤解というか良いほうに見られているところがあるんですよね。
例えば「民のために四海を太平にならしめる」事を遺言として崩御します。この遺言を守り遺児の「後村上天皇」は北朝が滅ぶまで戦う事を胸にする・・・のです。おかげで、子孫の南朝はなかなか妥協をしませんでした。しかして本当に目的は「民のため」だったのでしょうか。

鎌倉時代の中頃、後嵯峨天皇というお方がおりました。この後嵯峨天皇はどうやら長男より次男の方が好きだったらしく、長男が天皇になるとすぐ、次男に天皇を譲るようにしました。この事が原因で天皇家は2派に別れてしまいます。持明院統と大覚寺統に。後醍醐天皇はこの2派のうちの大覚寺統の一人であり、しかも次男。ですが後醍醐天皇は「自分の子孫だけが天皇家を今後、継いで行くべきだ!絶対絶対にだ!!」と考えたようです、つまり「天皇家を継ぐにふさわしいのは自分だけだ」なんでそうなるのかはさっぱりわかりません。だって2派のうちの1派、しかも長男ならまだしも次男の家系なんです。でもそれだけエネルギッシュな御方だったという事は確かです。

物語には主題がある場合があります。例えば平家物語。その出だし。「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」そう平家物語の主題は「諸行無常」。あれだけ栄華を誇った平家、倒せるとは思えなかった平家もむなしく散る。この世に絶対などありえない。全てこの世は諸行無常・・・ってことでしょうか。

では太平記。「(・・・天の徳なり。)もしその徳欠くる時は、位ありとても持たず。・・・戒めを既往に取らざらんや。」(天の徳、それが欠ける場合にはいくら高い位であってもそれを維持することはできない。歴史を見て学ぶべきだ)
これって後醍醐天皇を指して言ってるんですよねえ、やっぱし。相手は天皇なので直接酷いことは書かれてないというか書けない。ので、ぼやかしてある。太平記はそんな感じらしいんです。でもやっぱり結論は「徳が無い帝王は滅ぶ」が主題。太平記を読むと前半の主人公、後醍醐天皇はびったし当てはまってしまうんですよね・・・💦忠実な家臣を裏切ったり(その家臣は鎌倉幕府に斬首される)地方に出向く自分の皇子にもウソをついたりと・・・そして後醍醐が始めた建武の親政のめちゃくちゃさは二条河原の落書(落書き)で表されました。

「この頃 都に流行るもの 夜討 強盗 謀(にせ)綸旨(ニセの天皇の命令書の事)」

ニセモノが簡単につくれる、それくらい綸旨を乱発していたんです。しかも朝令暮改(朝の命令が夕には変わる)も数々。武士たちは不満がつのっていきます。結果、源氏の名門 足利尊氏に武士の期待が集まる。当然、後醍醐天皇は面白くなかったのでしょう。尊氏が恩賞に「征夷大将軍」にしてくれと何度もお願いするが、それは絶対に許さなかった。「征夷大将軍」は武士の棟梁であり武士の統括者。これに任命しては「幕府」を開かれてしまう。武士たちの政治が始まる。天皇親政をめざしていた後醍醐天皇はいくら酷い政治だと言われようがそれだけは許せなかったのです。。。

オッサンの方々(笑)にはわかると思いますが 昔「ゴダイゴ」ってバンド?があったんですよね。印象深いのは「西遊記」(実写版)の主題歌「モンキー・マジック」そしてエンデイング曲「ガンダーラ」。このバンド名「ゴダイゴ」はこの後醍醐天皇から取ったそうです。理由は「なにかエネルギーを感じたから」だそうで。事実、後醍醐天皇には帝王としての格というか凄みがあったそうです。しかし、それは「徳がある」という事にはどうやらならなかったようですねえ・・・。

で、やっと楠木正成の出番ですが・・・今日も調子が無くなってきました💦💦
続きは書けたら後ほどに・・・・🙇

ハッタリ、ハッタリ、やっぱりハッタリは必要??

四月一日エイプリルフールに書こうかと思っていたのですが、エイプリルフールが余りにも寒かったので「太陽黒点」の話になってしまいました。

やっぱり人生にはハッタリも必要かな、と思う事があります。あんまりバカ正直に生きても苦しいだけかもしれません。ハッタリと言えば、これは悪い例になると思いますがヒトラーですね。チェコ・スロバキア解体併合交渉の時、ヒトラーはチェコ・スロバキア大統領に対して「今現在も、我がドイツ空軍爆撃機百機が貴国の返答の次第を待って、待機している」

つまり返答次第によっては爆撃するぞ、と脅したわけです。驚いたチェコは併合に合意する。しかしドイツには当時チェコ・スロバキアを爆撃可能な機は2機程度しかなく、まさに「大ハッタリ」だったのです。イギリスはヨーロッパを代表してドイツの行為を責め返答を求めます。と、ドイツは「もうこんな事はしないです、はい~ニッコリ」と返答。これを信じるのはもう何回目?って感じでイギリス・チェンバレン首相はドイツがオーストリアやズデーデン地方を吸収し巨大化するのを「見てるだけ~♪」してしまいました。

最初のうちは明らかにドイツはビビってました、ハッタリがバレるのを。しかしイギリス(ドイツが最も制裁を恐れてた)のチェンバレン内閣が何をやっても弱腰だったので味をしめ、どんどん巨大化し戦力を拡充。ポーランドにもソ連と組んで手を出しました。これにはポーランドと同盟関係だった英仏ともに流石に宣戦を布告し、とうとう第二次世界大戦が勃発してしまうんです。実はこのポーランド侵攻にも「きっと英仏はこれまで通り抗議だけで目を瞑ってくれるだろう」という思惑が見え隠れするのだそうです。なんか現代のどっかの国みたいですが、ポーランドは「そこは手を出しちゃならねえ」部分だった。ドイツはある意味、見誤ったんですねえ。
そして皮肉な事に初期のドイツ戦車よりもチェコのシュコダ社製戦車の方が優秀だったので併合国チェコの戦車がドイツ主力戦車の一翼を務めました。これもチェコを「ハッタリ」で併合してたからなんですよね。。。ガルパンで言えばカメさんチームの38(t)あれですね(笑)

ま、これは悪い「ハッタリ」ですが微妙な「ハッタリ」と言えば宮本武蔵ですねえ。武蔵は結構ハッタリの名人?なのですが有名な巌流島の決闘。遅れてきた武蔵に腹を立てていた佐々木小次郎が「勝負!!」とばかりに刀を抜き、鞘を捨てました。それを見た武蔵は「この勝負、鞘を捨てたお前の負けだ。鞘を捨てたという事は勝ってまた刀を鞘に納められないからだ」と言ったそうです。これって結構有名ですよね(自分の勘違いだったらカッコ悪いですが)

でも、ちょっと待てよ~?佐々木小次郎の刀って「物干しざお」って言われるくらい長大な刀ですよね。これは分類でいえば刃の全長が3尺以上の野太刀(のだち)に当たる。野太刀とはもともと馬上騎馬戦用に作られたもので後に徒歩の兵も使うようになりました。が、抜くのが一苦労。戦いの高速化にともない抜きやすい打刀(うちがたなー江戸時代の侍が帯に差してるやつ)が戦場の主役になるにつれ普通の太刀(たち)ともども廃れていき、のちにお飾りになりました。(ま、戦国時代の打刀自体、予備武器ですけど)

しかし佐々木小次郎は剣客としてこれまでこの刀で戦ってきたんですよね?その間、この長ったらしい鞘を腰に差したまま、もしくは背中に背負ったまま、戦ってたのかしらん??まあ、ザコならそれでも勝てるでしょうけど「マジ対決」でそんな長い鞘、邪魔にしかならない。おそらく抜いた鞘はどこかに置いてた(ほっぽってた)と思うんです。(ちなみに野太刀は背中に背負い戦場へ行き、戦前で背中から下して抜いていた)

つまり「勝負の前に鞘を抜いて捨てる(置く)」は長い刀を扱う小次郎にとって当たり前だったんじゃないかな~って思うんですよね。だから「鞘を捨てた」云々言われても・・・「だからどうした?」気分だったのではないのかしらん?その気分を北関東風に言えば「な~に言ってんだオメェ~。鞘捨てたって毎度のごとだっつ~の!この抜け作が!!!」だったんじゃないかしらん(笑)だからこの言葉だけで「動揺」することはなく、やっぱし遅れてきたことにいら立ってたのが勝負に対してはまずかったのでしょうか。

だがしかし、武蔵が遅れてきたというのは吉川英治の創作であるそうです。するとこのセリフも創作説なんでしょうか?寡聞にして知りませんのでこれは武蔵の「ハッタリ」としておきます(笑)

・・・と、毎度の事ながら中途半端ですけど、少~~~~~し体調が優れませんので、今日はこれで終わりにしたいと思います。すみませんでした。
♪パンツ占い♪
今日のパンツ占いだよ!
thanks font:S2G
プロフィール

ふじさきまこと

Author:ふじさきまこと
エロ漫画家 藤咲 真です。


単行本は過去12冊
(単行本化されていない作品集めると2〜3冊分ありますけど・・・)

fujimako(A)amail.plala.or.jp
お手数ですが(A)を@に変換してください。
お仕事依頼もここへどうぞよろしくお願いいたします。

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